甲子園モデルは持続可能なのか――時間、お金、文武両道、そして日本の学生スポーツを考える

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教育学
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先日、前任校の応援で甲子園に行きました。

甲子園という場所には、やはり特別な空気があります。 選手だけではありません。応援する生徒、保護者、教員、吹奏楽部、卒業生。全国各地から多くの人が集まり、新幹線に乗り、ホテルに泊まり、食事をし、グッズを買います。

高校生のスポーツ大会でありながら、そこでは驚くほど多くの人とお金が動いています。そんな光景を見ながら、少し考えました。
甲子園とは、一体何なのでしょうか。
もちろん、高校生が目標にする素晴らしい舞台であることに疑いはありません。一方で、それを支えるために、生徒や家庭、学校、教員はどれほどの時間とお金を使っているのでしょうか。そして、もっと根本的には、私たちは学校スポーツに何を求めているのでしょうか。

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「部活動」と呼ぶには大きすぎる活動

一般的に部活動と聞けば、授業が終わった後に数時間活動する姿を思い浮かべます。しかし、全国大会を目指すような強豪校では事情が違います。朝練があり、授業後には夜まで練習する。 土日は午前と午後の二部練習。 学校によっては午後の時間そのものを競技活動に充てるケースもあります。

仮に、平日に朝練1時間、放課後3時間。休日に1日6時間活動するとします。平日20時間(4時間×5日)+休日12時間(6時間×2日)で、週32時間程度。年間40〜45週活動すれば、年間1000時間を大きく超えます。高校3年間なら数千時間です。

実はスポーツ庁は、この点についてすでに基準を示しています。2018年策定・2022年改定の「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」では、1日の活動時間は平日2時間程度、休日3時間程度とし、週当たりの活動時間は16時間未満とすることが望ましいとされ、休養日も少なくとも週1〜2日設けることが求められています。

単純計算すると、ガイドラインが想定する上限(週16時間未満)と、強豪校の実態として仮定した週32時間程度には、およそ2倍の開きがあります。これは果たして「放課後の課外活動」と呼べる規模なのでしょうか。むしろ、国が示す基準とはすでに別の論理で動く、もう一つの教育課程が学校生活の中に存在していると考えた方が、実態に近いように思います。

日本の強豪校は「体育学校」に近いのではないか

中国には、競技者育成を専門に担う体育学校があります。もちろん、日本と中国では教育制度もスポーツ政策も大きく違い、日本に制度としての体育学校が存在するわけではありません。ここで注目したいのは制度そのものではなく、機能面での類似です。全国から有望な選手を集める。 寮を用意する。 専門的な指導者を置く。 専用グラウンドやトレーニング設備を整える。 高校卒業後は大学、社会人、さらにはプロへと選手を送り出す。

とりわけ高校野球では、少年野球 ⇨ 中学硬式 ⇨ 強豪高校 ⇨ 大学・社会人 ⇨ プロ野球という競技者育成のルートがかなり明確に存在しています。

一方で、この競技人口の裾野自体は縮小し続けています。日本高等学校野球連盟の調査によれば、硬式野球部員数は2014年の約17万人をピークに減少を続け、2025年には12万5381人となり、11年連続の減少、ピーク比では約23%の減少です。中学校の野球部数はさらに急激で、2010年の8919校から2025年には3993校へと、44.7%にまで落ち込んでいます。

つまり、競技人口の裾野が縮小する一方で、全国からトップ選手を集める強豪校への集中は変わらず、あるいは相対的に強まっている可能性があります。一部の強豪校は「普通高校の部活動」であると同時に、競技者養成機関でもあるのではないでしょうか。

それ自体を否定する必要はありません。プロを目指す高校生には、それだけ競技に集中できる環境が必要でしょう。問題は、そのモデルが日本の学生スポーツ全体の標準になっていないかということです。

全員が同じ大会を目指すことは本当に公平なのでしょうか

高校野球では、地域の生徒が集まって放課後に活動する学校も、全国から選手を集め、寮や専用施設を持つ学校も、同じ地方大会に出場します。制度上は平等です。どの高校にも甲子園への道が開かれています。それは高校野球の魅力の一つでもあります。

しかし、「同じ大会に参加できること」と「公平であること」は、本当に同じなのでしょうか。投入できる時間も、お金も、指導環境も、選手層も大きく違います。それでも全員が同じ大会で評価されます。

この構造は、野球だけではありません。テニスやバスケットボールなどでも、中学や高校から競技を始めること自体はできます。しかし、大会で結果を残そうとすれば、小学生あるいはそれ以前から競技を続けてきた選手と戦わなければなりません。少年期からの一貫した育成ルートがすでに確立している野球やサッカーでは、なおさらこの傾向が強いでしょう。

結果として、「高校から始めても勝てない」「中学からでは遅い」という感覚が生まれやすくなります。本来、学校スポーツには「競技者を育てる」という役割だけではなく、「新しいスポーツと出会う」という役割もあるはずです。ところが大会を中心に考えると、どうしても早く競技を始めた生徒が有利になります。全員を同じ大会に乗せるという公平性が、結果として早期専門化を促しているとすれば、少し皮肉でもあります。

「3年間やり切ること」は本当に美徳なのでしょうか

日本の部活動には、「最後まで続けること」を高く評価する文化があります。特に強豪校では、厳しい練習に耐えた。 レギュラーになれなくても最後まで続けた。 仲間のために裏方として支えた。そうした経験が、美しい物語として語られます。もちろん、それによって得られる友情や成長はあると思います。ただし、それだけを唯一の正解にしてよいのでしょうか。

ここで一つ興味深いデータがあります。日本高等学校野球連盟の調査では、入学時の1年生部員数に対して3年生まで残る割合を示す「継続率」が90.1%とされています。つまり、実際に途中で辞める部員は、全体から見ればむしろ少数派です。

だからこそ、「辞める」という選択そのものが目立ち、特別な決断として扱われやすくなっているのかもしれません。9割が残るという状況の中で辞める1割に対して、ある種の重みが与えられている構造とも言えます。

高校生にとって3年間は長い時間です。年間1000時間を部活動に使えば、高校3年間で3000時間になります。その3000時間をどう使うかは、その後の人生にも影響します。試合に出られないのであれば、別の競技に移る。 学校の部活動ではなく地域クラブで続ける。 勉強に力を入れる。 趣味や別の活動に挑戦する。それも十分に前向きな選択だと思います。にもかかわらず、「途中で辞めた」という事実だけがネガティブに評価されることがあります。競技を続けることと、同じ学校の同じ部活動に3年間所属し続けることは、本来別の話ではないでしょうか。

最近の生徒は「タイパが悪い」と感じているだけかもしれません

最近、部活動に所属しない生徒も珍しくなくなりました。それを、「最近の生徒は我慢できない」「部活動への意識が低い」と捉えることもできます。しかし、別の見方もできると思います。生徒たちは、自分の時間の使い方を以前よりシビアに考えているのではないでしょうか。毎日3時間練習する。休日も試合がある。しかし自分は試合にはほとんど出られない。その活動に参加しないという判断は、必ずしも怠惰ではありません。本人なりに費用対効果を考えている可能性もあります。塾に行く。 資格を取る。 友人と過ごす。 ゲームをする。 アルバイトをする。 休む。高校生の時間の使い方は、部活動だけではありません。学校側が「部活をするのが当然」という前提を持ち続けること自体が、今の生徒の感覚とずれてきているのかもしれません。

文武両道という美しい言葉、そして教員の時間

そして、学校スポーツを語るときによく登場するのが「文武両道」という言葉です。響きはとてもいい言葉です。しかし、実態を見てみると、必ずしも一人ひとりの生徒が文武両道になっているわけではありません。大学進学実績を作る生徒がいる。一方で、全国大会の実績を作る生徒がいる。学校としてそれらを合わせて、「本校は文武両道です」と表現します。しかし、それは時として、個人の文武両道ではなく、学校内の文武分業になっているのではないでしょうか。この区別は意外と重要だと思います。朝から練習し、放課後から夜まで競技をし、休日も遠征する生徒に対して、「勉強も同じように頑張りなさい」と言うだけでは、精神論になってしまいます。本当に文武両道を求めるのであれば、学習する時間を学校側が制度として保障する必要があります。文武両道は気持ちの問題ではありません。かなりの部分が、時間配分の問題です。

そして、この時間の重さを引き受けているのは生徒だけではありません。文部科学省の令和4年度教員勤務実態調査によれば、中学校教諭の週当たりの学内勤務時間は61時間13分で、小学校・高等学校・特別支援学校を含めた学校種の中で最も長くなっています。さらに同調査では、中学校教諭が土日に学校で過ごす時間のうち、部活動・クラブ活動の指導に充てられている時間は平均1時間29分にのぼるとされています。

生徒の文武両道を支えるはずの制度が、教員の側の時間をも大きく消費している構造があるとすれば、「気持ちの問題」として片づけられる話ではないでしょう。

一方で、本気で競技者を育てる学校なら、「競技に大きく時間を使う学校です」と明確に打ち出してもよいのではないでしょうか。その方が、生徒や保護者、そして指導にあたる教員にとっても分かりやすいはずです。文武両道という美しい言葉ですべてを包み込む必要はないように思います。

そして、その頂点に甲子園があります

甲子園という大会は、日本の学校スポーツの成功例の一つです。全国の高校生が目指します。学校全体が応援します。地域が盛り上がります。卒業生も集まります。新聞やテレビが大きく扱います。そして、その周囲では大きなお金が動きます。交通費。 宿泊費。 応援費。 バス代。 楽器輸送。 保護者の旅費。 教員の出張。 飲食。 グッズ。甲子園に出場するために使われる費用だけではありません。甲子園というコンテンツが存在することで、学校も家庭も人も動きます。

高校野球は教育活動であると同時に、巨大な経済圏でもあります。だからこそ価値があります。しかし、その価値があまりにも大きいからこそ、学校側も勝つことを求め、競技環境を高度化し、生徒はより早い時期から競技を始めるようになります。全国の競技人口自体は減っているにもかかわらず、頂点である甲子園の存在感が縮まないのは、この構造ゆえかもしれません。甲子園は単なる全国大会ではありません。日本型学校スポーツの価値観を象徴する存在でもあるのではないでしょうか。

部活動の地域移行は何を変えるのでしょうか

現在、中学校を中心に部活動の地域移行・地域展開が進められています。この改革は、教員の働き方改革として語られることが多いです。先に見た教員の勤務実態を踏まえれば、それも当然の文脈でしょう。進捗はどうなっているのでしょうか。スポーツ庁の調査によれば、平日の部活動については2025年度までに全国で8767の部活動(全体の31%)が地域連携または地域移行を予定しているとされています。国としては2025年度を「改革推進期間」とし、2026年度から2029年度を「改革実行期間」の前期と位置づけて、さらなる移行を進める方針です。

つまり、平日の地域移行はまだ全体の3割程度にとどまっており、この改革はようやく本格的な実行段階に入ろうとしている途上にあります。

これまで日本では、「スポーツをする」 = 「学校の部活動に所属する」という関係が非常に強くありました。そのため、「部活を辞める」ことと 「競技を辞める」ことが、ほぼ同じ意味になっていました。地域クラブが一般的になれば、この関係を切り離せるかもしれません。週2回だけテニスをする。学校にはない競技を地域で行う。中学では野球、高校では別競技に挑戦する。競技大会を目指さず、健康や交流のためにスポーツをする。そういうスポーツとの関わり方が、もっと普通になってもよいと思います。

競技者育成と、学校教育と、生涯スポーツを分けて考える

これからの学生スポーツを考えるとき、一つの「部活動」という仕組みにすべてを詰め込む必要はないと思います。プロや全国大会を本気で目指す生徒には、競技者育成に適した環境が必要です。学校で友人と活動したい生徒には、教育活動としての部活動があってもよいでしょう。そして、勝敗や全国大会とは関係なく、スポーツそのものを楽しみたい生徒には、地域クラブや民間クラブがあってよいと思います。必要なのは、全員を同じ大会に乗せる公平性ではなく、それぞれが自分に合ったスポーツとの関わり方を選べる公平性ではないでしょうか。

甲子園は素晴らしい舞台です。本気で甲子園を目指す高校生がいることも、そこに青春を懸けることも否定したくはありません。

ただし、すべての学校スポーツが「甲子園モデル」である必要はありません。

競技を極める道もあります。楽しむ道もあります。途中で競技を変える道もあります。一度離れて、大人になってから再び始めてもよいでしょう。スポーツは、本来もっと長い人生の中で楽しめるものです。甲子園を見ながら考えたのは、高校野球そのものへの疑問というより、日本の学校が、スポーツを少し抱え込みすぎてきたのではないかということでした。国のガイドラインが示す週16時間未満という基準と、強豪校の実態との間に生まれた大きな乖離、縮小する競技人口と拡大し続ける頂点の存在感、そして生徒だけでなく教員にまで及ぶ時間的負担。これらはいずれも、一つの仕組みに多くの役割を背負わせすぎた結果のようにも見えます。

部活動の地域移行がまだ3割程度という途上にある今だからこそ、甲子園という成功したモデルを眺めながら、これからの学生スポーツのあり方を考えてみてもよいのではないでしょうか。

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